学徒兵の残した手記を読んで

前回の読書投稿で消化不良気味となり、特攻隊員関係の書物を読みたい旨、記した。最近、靖国神社に行ったのも、遥か以前から読みたいと思っていた「きけわだつみのこえ」と言う学徒兵の手記が根底にあった。この本の75名の手記の中で最も印象の強い「上原良司」と言う人物が安曇野出身で、よく行く図書館では「上原良司」の常設コーナーがあって、関係書物の中から以下の3冊を読んだ。

20130707

「きけわだつみのこえ」(聞け海原の声)は学徒兵の手記を戦後まもなく編纂したもので、戦争を批判しながらも散っていった若者の壮絶な記録である。いずれも戦時中の思想統制や厳しい検閲からすり抜けてかろうじて残された本音の手記で、全国から集めた多くの手記の中から抽出された。手記冒頭の上原良司をはじめ、涙なくして読めない手記の連続であった。手記の多くが共通して戦争や上層部を非難しながらも、特攻隊員を自ら志願し、死にいくことを本望とし誇りとしている。決して生を軽んじて死に急ぐのではなく、父母・家族への深い愛情や思いやりがほとばしっている。この人間味ある思いやりこそが、他人には託せず志願の行為となる様は上原良司の他の2冊から十二分に読み取れる。戦争責任者は学徒の誠実さや可憐さの虚をついて巧みに志願させていて何ともやりきれない。そして世相も苦渋の想いをしながらも、これを黙認した。手記の最後はB・C級戦犯として外地で刑死した学徒の17頁半に渡る述懐である。命令した上司の身代わりになって処刑された学徒の辞世句、「音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を」に涙した。戦争とは狂気であり、どこかで歯車が狂った所産だ。政治も世相も教育も一丸となって狂った方向に向かっていく。昨夏に読んだ「ナチスの知識人部隊」で、少年時代の教育がトラウマとなって、自民族の偏重と敵への恐怖感が募って、他民族の大量虐殺に至った様相を肌で感じた。今は民主主義の平和な時代とも言われるが、教育や民意の歯車が一歩狂えば、悲劇は再び起こりえることを示唆している。

靖国神社は戦争で亡くなった英霊を祀った社で、学徒の手記にも「靖国の神」にならんことを言及しているものが多い。しかし、手記の中では本心からではなく、勇ましさを鼓舞するための当時の流行用語に使っていた感がする。現に複数の手記の中で、「私は靖国ではなく、故郷に葬ってほしい」旨の記述がある。戦犯との合祀問題が取りざたされてきたが、以前の私は分祠すれば、戦争で犠牲になった英霊が泛かばれると思ってきた。しかし今回の読書を通し、私にとっては靖国神社は軍国主義、全体主義を象徴する戦争の社である感を強めた。恒久の平和を念じ、長い読後感想を閉じる。

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