本日、各受賞作の発表がありました。芥川賞が古川真人の「背高泡立草(せいたかあわだちそう)」、直木賞が川越宗一の「熱源」と決定しました。芥川賞は全候補作を読みましたが、今回の受賞作はさもありなんとは思ってはいたものの、一番取って欲しくなかった作品です。直木賞受賞作は図書館から借りて年末年始、我が家でつんどくしていた作品で、返却日までに全く手がつかず、読めなかったことが残念でした。再度予約していて、今、次に借りられる順番になっていて、読むのを楽しみにしています。
呉勝浩「スワン」を読んで
明日、発表予定の直木賞にノミネートされた題記の本を読んだ。サスペンスやミステリーとはちょっと違う、文芸ジャンルとしては事件小説の類だと思う。巨大ショッピングモールで起こった無差別殺戮テロの被害者同士が事件を振り返って論争し、各自の抱えた過去や嘘が次第に暴かれ、反駁し敵対して最後のクライマックスを迎えると言った流れのストーリーだ。事件そのものは最初の60頁、全体の1/6ほどで愉快犯達の自殺で終結するが、犯人と被害者との関わりを巡って「本当は何が起きたのか」がテンポ良く展開されていて、読むに飽きない。そこそこのサプライズやどんでん返しがあって楽しめた。ただ、スワンの題名にも関係してバレエ「白鳥の湖」のシーンがやたらと出てきて物語を脚色し、こじ付けがましさを感じた。
木村友佑「幼子の聖戦」を読んで
今回の芥川賞候補作で最後の5作品目を読んだ。分かりやすい文章で取っ付きやすく、おごりやお澄ましなどの気取りもなくて庶民的な感じがした。芥川賞候補は昔から純文学生粋の中編小説が当たり相場だが、この作品はどちらかと言うとエンタメ風の仕上がりだ。主人公は品がなくチョイ悪で、卑劣感とは言わないまでもとても同情しがたい輩の物語となっている。その一方で、主人公は題名から推測される幼稚で無垢な心を持って世の中の不条理や閉塞感に変則ながら忽然と立ち向かい、疲弊し挫折し、打ちのめされるストーリー展開になっている。その生き方に共感するまでは至らないが、ある種の諦観が共有できたような気がした。今回の5人の候補者の中では一番高齢の50歳で、ネットでは結構評判を呼んでいることを知った。そして、読み易かったのは作者との年齢ギャップが比較的に小さかったことも影響しているのか、と勝手に想像したりしている。
高尾長良「音に聞く」を読んで
今回の芥川賞候補作で4作品目を読んだ。とても難しい内容で、斜め読みした程度では中身がつかめなかった。文章全体はとても洗練されていて、新人作家の中でその筆力は相当なものを感じた。舞台はウィーンで、そこに住む疎遠となっていた父親を姉妹が訪問した時のことを書き留めた手記となっている。延々と描かれているのが音楽と文学の芸術論で、これがテーマなのか、それとも親子の憎愛、はたまた姉妹愛なのかが判然としなかった。ちょっと説明不足の消化不良気味で唯一、ウィーンの劇場や美術館の雰囲気はよく描かれていたと思う。作者を調べると、医師を務める若い才女で読後に初めて女流作家の作品であることを知りつつも、なーるほどと納得した。今回が3回目の芥川賞ノミネートで、結果がどうなるか気になる作品だった。
三九郎、立ち会いました
今年もやってきました、三九郎です。信州でも松本エリアだけ、どんど焼きとは言わず、三九郎と言ってます。謂れは諸説あるようですが、「凶作・重税・疾病の三つの苦労を三九郎と言わしめ、正月のしめ飾りや達磨などと一緒に燃やして、神送りをする行事」のようです。我が家の正月しめ飾りも以下の画像の一部として、無事神送りしたことを立ち会いました。火入れの着火は午後4時頃でした。間近で見ると結構迫力があって、写真と動画を以下に載せました。ご覧ください。
動画は以下にYouTube投稿したもので、シンプルながら雰囲気は出ていると思っています。
古河真人「背高泡立草」を読んで
題記の芥川賞候補作を読んだ。これで3冊目で、この作家は2年半前にもノミネートされてその時にも読んだ。どうやら今回でノミネートが3回目のようだ。新人登竜門の芥川賞がいつまでノミネート対象になるのかは知らないが、結構複数回ノミネートされる作家が多く、それだけの実力者の一人なのか、はたまた気鋭の新人が枯渇気味なのかもよく知らない。とにかく読んで全く面白くなかった。これは前回読んだときと同じで、前回は「ノミネート作でなかったら最初の数十ページで放棄する類のものだった」とあり、今回もそのリピートだ。今回も舞台は北九州の小さな漁村で、親類縁者が集まって空き家となった実家の草掃除をするストーリーで、村の変遷や当時住んでいた人の日記風の挿話が色々と出てきたが、一体何を言いたいのか分からず面食らった。面白くなかったことの最大の理由は主人公不在なことだった。
そろそろ芥川賞・直木賞発表
千葉雅也「デッドライン」を読んで
何の予備知識も前評判も無縁にして、題記の芥川賞候補作を読んだ。大学院生の卒論の期限が迫るなかで繰り広げられる生き様を描いた小説で、とても得体の知れない内容だった。退廃とは違う、自暴自棄でもない、さりとて多くの人が共有できるような青春の痛みを持つものでもない。ジキル博士とハイド氏とは少し違うが、真面目に哲学に向き合う側面とホモに溺れる二重人格の主人公がそこに居た。とても理解し難く、何かしら不潔感も漂ってきて、読後の爽やかさは皆無だ。著者を調べると、大学で教鞭をとる哲学者が定職で、わりと有名人らしい。ネットではこの本の紹介に「気鋭の哲学者による魂を揺さぶるデビュー小説」とあった。確かに魂がマイナス側に揺れて落ち込んでしまうが如くだった。
乗代雄介「最高の任務」を読んで
最新の芥川賞候補作の中の一つを読んだ。候補作品はいつもながら読書感想を書くのが難しい小説で、唯一よいことは作品が短いことだ。賞の応募資格が中編までとされ、分厚い単行本ほどの分量は対象外とされている。本作品を読んで、又いつもながらの感触を持った。分かり易い文章で読みやすいのだが、とことん感情移入したり先を競って畳み込んで読み進んでいくといった醍醐味が一切ない。瑞々しくうまい文章なのに全体が退屈なのだ。この感触はまさに芥川賞を勝ち取る雰囲気だ。主人公の姪と早世する叔母との交流を描いた内容で、日記を多用しているところに新規性を感じた。ただ、多感でナイーブな若い女性の心情を描くのに女流作家のような自然な艶めかしさはなく、文体に無骨な男性作家がイメージされてしまうイマイチさを感じた。
病院に行きました
待ちに待った病院ですが、べらぼーには混んでいませんでした。まあ、うちのオバはんが予め受付を済ませてくれたので、助かりました。この正月はずーうと、お世話になりっぱなしです。結果は意外と言うかシンプルでした。先生の最初の一言は「風邪ですね」。風邪以外の何ものでもないと思っていた私は風邪は当然分かっていて、これを真っ二つにカチ割って、その先の鼻や喉や気管支、そして肺が今やどんな状態に追いやられているのかをハラハラしながら聞くはずでした。ところが、喉の状態はそんなには悪くなく、聴診器の呼吸音はとても穏やかで、肺炎への恐れはありません、とのことで拍子抜けしました。インフルエンザなのかどうかを問うと、もっと早い段階では検査と治療がセットで有効だが、今となっては確度が落ちてあまり意味がないとのことでした。毎日続いていたあの咳込み、胸が張り裂けんばかりの痛みは一体何だったのか、「単なる風邪ですね」とは言われなかったもののどうやら通常の風邪だったようです。カミさんからよく言われる「大袈裟人生」の年始版と言ったところに落ち着きそうです。
ところで、寝込んだベッドの中ではいろんな過去のシーンを思い出しました。瀕死の時は悲しい場面が走馬灯のようによぎるとも言われています。今回は悲しいこともよぎりましたが、今日の病院通いの結果を見据え、一つだけ紹介させていただきます。高1の担任は生物のM先生。先生が風邪を召されとても話しにくそうな講義中に何とこんなことを言われました。「風邪引きは元来つらいんだけど、治りかけてくるとこれが逆転して気持ちがいい。もうこれ以上は悪くはならないし、どんどん良くなっていく。実に爽快な気分がする。A君分かるかね」私はA君ではありませんでしたが、
「シェンシェー、分かりません」とA君が答えると、必ず帰ってくる言葉が以下でした。
「分かれ」と。大方の動詞は命令形をもちますが、普段使いの口語で「分かれ」とはほとんど言わず、これをよく使われた先生のお言葉がいまだ心の片隅に残っています。